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ペルシャは今日も油過多ぶら
                  
イラン初心者のテヘラン一日游
1998年9月

〈 後 編 〉

5 テレキャビンでの昼メシ
 若者たちや家族連れと時々すれちがう。
 どのグループにも仰々しい行楽の様子はなく、近隣の人がちょっと裏山に散歩に来たといった軽さがあった。今日は日曜日だが、イランでは木金が週末に当たるため、日曜日は平日である。人がまばらなのは曜日のせいかもしれなかった。
 店の集まった一角を過ぎると、道はうらびれた細道に変わる。人が二人並んで歩くのがやっとの幅で、おまけに傾斜も増したとあって歩調がぐんと落ちる。それでも行き過ぎる人々があるのを見ると、ふだんからよく使われる道なのだろう。両脇には、たまに「レストラーンなになに」と大書されたペルシャ語の看板が、門柱にでんとかけられている。その門からは、大きな看板のわりには頼りなげな小道が一本だらだらと、あるいは短い急な階段がちょっこりと、ただあっけらかんと奧に延びるさまを見るにつけ、あまりサービスなどには頓着せず、中身で勝負の剛毅な店が多いと想像された。
 男はどこまで登るつもりか、とくべつ表情も変えず、慣れた足どりで狭い坂道を登ってゆく。私は半歩ほど後を行く。やや息がはずみ、額にじんわり汗がにじもうかというころ、坂道は行き止まりとなり、その先には、やはりレストラーンなになにと書かれた門が、さらに門の向こうには厨房と事務所を合わせたような建物と、ばらばらと座敷を置いた庭が見えた。座敷は毛氈(もうせん)を敷いた大きな将棋盤といった格好で、高さ50センチ、一辺が3メートルほどの四角形をしている。それがあわせて10台くらいか、まばらに植わった木々の陰に、ちらほらと据えられていた。
 男は店のマスターと思える中年男と言葉を交わしたあと、私に「チキン? マトン?」と問いかけた。メニューはやはりカバブか。イランの外食は、カバブかサンドイッチだとガイドブックにある。これからはいやでもカバブを食べることになる。せめてこのように多少は気のきいたレストランでは、いくらか違ったものを食べておきたいと欲が出たのだったが、やはり手の込んだ料理を出してみせるだけの遊び心はなさそうで、おそらくこのあたりの店は、どこも似たり寄ったりの口なのだろう。
 出てきたチキン・カバブは、2〜3センチ四方の角切りチキンの、肉汁がじゅわっとしみだしたアツアツの串刺が2本、それを串からはずし、肉片の一つ二つを白いメシとともに口のなかに放り込む。チキンの歯ごたえとメシのさくさくした脆(もろ)さ、メシの淡泊さと肉のこってりした味がほどよくミックスされ、空き腹には過分なごちそうであった。
 とはいえ、冷静にみれば肉を焼いてスパイスをふりかけただけの料理である。肝心のスパイスにしても、ペルシャ五千年の歴史とはおよそ縁のなさそうな単調な風味であった。その芸当のなさに輪をかけるのが、オレンジ味の炭酸ジュースだ。ファンタ・オレンジのイラン版。もちろんジュースに罪はない。コーラと並んで万人に愛される世界的な清涼飲料水である。しかし酒のないイランでは、どのレストランに行ってもコーラとこのオレンジ炭酸ジュースが幅をきかせている。その選択肢の貧しさに、この国の底で鬱々とうごめくフラストレーションの片鱗を見る思いがするのである。
 しかしそれはそれ、腹いっぱいの食事を終えて食後の紅茶をすすると、体も気持ちも落ち着いてくる。そのうえで、
 ──さて、そろそろ活動再開だ。
 という気合いが体内に満ちてくる。
 男はタバコで一服したあと、マスターに勘定書を持ってこさせた。ところが勘定書を一目見た男は、どうやら腑に落ちない点があったらしく、マスターに抗議する様子。受けて立つマスターは「いやいや、お客さん、これはこうでああで……」とかえって客を諭(さと)す構え。意見が通らないのに男は徐々にテンションが上がり、そのうち「じじい、なめたらあかんぜ」とでも言い出しそうな勢い。
 しかしマスターは泰然としたもので、男の売り言葉を聞き流し、まるで無愛想な役人のように取り付く島もない。男は、憤りの冷めやらぬまま、最後には仕方ないといった面もちで何枚かの札を差し出した。
 私はそのやりとりを見て、
 ──ああ、みっともない男だ。
 とは、思わなかった。男が怒りの原因を説明してくれたからである。私が外国人だという理由で、特別に高い料金を請求されたのだという。無知な外国人に対して法外な値段をふっかけるという話は、いろいろな国で聞きもするが、今回のように地元の人間にボるというのはあまり聞いたことがない。取れると見れば、なりふりかまわず取ってみせようとの算段は「いい生活」になかなか手が届かないイラン国民の焦りとも取れる。一応の成功者である成金は、そんなマスターを、
「ノーグーッ。泥棒、同じ」
 とあからさまに蔑視する。その気持ちはたしかによく分かる。しかしその成金とて、今はたまたま稼ぎがあるから大口をたたく側に回っているが、ひとたび金に困れば、この男こそまっさきに口八丁で金を生み出すタイプに見えないこともなかった。
 冷めた気持ちをかかえ、もと来た坂を下りる。下りの道はいかにもあっけなく、ほどなくしてサヴァリが客待ちをする駐車場へともどってきた。
 来たときと同じくメイダネ・タジリシュで乗り換え、メイダネ・ヴァナクまで戻る。サヴァリは繁盛し、席はすぐ満員となる。ヴァナクで降りたときには、かなりくたびれていた。そんな私の疲れた顔をちらりと見て、男は言う。
「今日、車、友だち、使ってる。明日、大丈夫。車、チェンジ、チェンジ、とても疲れる。明日、ノーチェンジ。疲れない」
 言い訳のような、謝っているような、誘っているような、いずれとも取れる言葉であった「車、チェンジ、チェンジ」とは、サヴァリを何度も乗り継ぐことを言うようだ。明日はオレの車が使えるから、サヴァリに乗る必要はないと言いたいのだろう。私は、
 ──明日もお小姓ゲームを続けるつもりか。
 と、暗然とした気持ちになったが、行動は自分の心持ちひとつで決まるもの、これ以上の遠慮は無用と思えと、私はみずからを励ました。悪い男ではないが、妙に自信家を装って好意を押しかぶせてくるところがうるさかった。
 どうせ通じないだろうと思いつつも、
「明日は一人でいいです」
 と、とりあえず自分の意思を示唆しておく。
 イランでは、相手の親切は一度は拒むのが礼儀だという。私の日本語が分からないのか、あるいは一応の礼儀と受け取ったのか、男はそれ以上の反応を示さず、近くに停まっていたサヴァリに行き先を確認すると私を促し、自身も車に乗り込んだ。
 3台目のサヴァリで、ようやくメイダネ・ヴァリエアスルの南側へと戻ってくる。テヘランの四条烏丸である。男のほうもさすがに疲れたとみえ、休憩がてら男の家に行くことになる。
6 アパートメント
 大きな図書館の建物を横目に見ながら、大通りをさらに南下し、脇道を少し西に入り込んだところに男の家があった。今朝方、男が閉め出しをくったあのアパートメントである。今はカギがある。がちゃがちゃとカギを開け、鉄のドアを押し開け、日本の団地にもあるような石の階段を4階まで上る。階段の左右にある部屋のうち、右側の扉が男の家だった。
 玄関に続いて、中央に8畳ほどのがらんとしたスペースがある。ソファーもなにもなく、ただ本場のペルシャじゅうたんが敷かれている。その奧には、窓のついたL字型の応接室。そこには長いテーブルを置いた一角と、ソファーを置いた一角とがあり、応接室だけで12畳くらいの広さがあった。そのほか、子ども部屋にしている四畳半ほどの部屋と、台所およびバス・トイレがある。夫婦の寝室ももちろんあるだろう。日本の感覚だと、4LDKくらいにはなるだろうか。
 私は、応接室のソファーを勧められた。
 家には誰もいない。男には奥さんと娘がいるが、不在のようだ。男は棚の上に無造作に積んであったアルバムを取り出し、私に見せてくれる。
 結婚当時の写真があった。
 奥さんは、目がやや腫れぼったいものの、焦点の定まらないぼんやりとした視線に、どこかコケティッシュな媚(び)が宿っている。口はすっと結ばれ、意志の強さがうかがえる。頬のあたりがまた、ぽっちゃりとして愛くるしい。なにより、顔全体に輝く若さがあり、自信と希望にあふれている。当の旦那が、これまた甘い二枚目である。口ひげがやや遊び人めいた面相を作っているとはいえ、涼しい目元に見つめられると、すべてが甘美に映ったにちがいない。
 もうかれこれ、20年も前の写真である。
 最近の写真もある。
 意志の強さはいつしか小言の多さに化けたのか、美少女の面影はたしかに残るものの、内面の刺々しさはおのずと表情に表れて、口のきつそうな目のきつい、ひとりの中年婦人がそこにいた。あの宙をさまようふくやかな視線は、いったいどこに消えたのか。私は生まれたてのやわらかな樹皮が、凍てつく寒風に冷たく乾き果てるさまを思い浮かべ、
 ──痛々しい。
 と、思った。
 身体の変化についてではない。柔軟で丸い心に角が立ち、次第にそれが鋭利になっていく変化のことである。
 いずれにせよ、今の写真を見ると、成金がどうやら奥さんに頭があがらないらしいのも、うなずける気がする。とくに仕事がなかった10年ほど前は、奥さんにかなり責められていたようだ。
「イラン、イラク、戦争。イラン、仕事ない。毎日、お金ない。奥さん、とてもアングリー」
 ここ数年はイランも経済がよくなりつつあるが、一方で人々の気持ちはすさんでいると嘆く。
「イスラム、うそ、言葉、ダメ。酒、少し、リラックス。OK。でも、うそ、言葉、よくない」
 成金も、たんに要領がいいだけでなく、せっぱ詰まった苦労をくぐってきたのだ。そのなかで、自分なりの人生観を築いてきたのだろう。ウソはよくないと、何度も強調していた。
 ブドウやピスタチオをごちそうになりながら、私はそんな話を聞いていた。やがて男が喋り疲れてくると、次第に沈黙の時間が長くなる。私は頃合を見計らい、
「そろそろ帰ります」
 と、男にいとまを告げた。男はいつでもここを再訪できるようにと、私のメモ帳にそのアドレスをペルシャ語で書いてよこした。
7 ふたたびロビーにて
 別れ際のタイミングをつかめずにいた。
 男に送られるまま、けっきょくだらだらとホテルまで付き添わせた。男は慣れない外国人を護衛するのが常識中の常識とでも考えているのか、当然のようにロビーまでやってくる。
 ──それが無神経というのだ。
 私は苛立ちを募らせた。ここにきて、いまだ主従関係ははっきりしていた。男は「与える側」に居座ることで、自分自身の存在を確認しているようでもあった。
 私はそんな男を、
 ──さびしい人だ。
 と、感じた。
 話好きのわりに、その姿には影の淡さがある。金に不自由せず、生活に不満もなさそうなのに、どこか枠に押し込められた、分別くささを見せるときがある。知らない相手とも気安い会話ができるのに、かえってふだんから遠慮なく話せる友だちがないのかもしれない。
 さりとて、旅行者相手に親切の押し売りはよくない。
 イスラムという宗教のせいか、あるいは民族的にそういう社会なのか、それとも最近の政治のせいなのか、私にはいずれとも判別がつかないが、私が感じたかぎりにおいて、イランでは「個」の考えが薄い「あなた」と「私」は本来隔絶しているものだという認識があまりない。他人がすぐ隣人になる。そこに社交はあっても真の交わりはない。もしかしたら、イランは──あるいはイランの都会は──大きな社交場かとも思えてくる。社交場であれば、たしかに個の考えなどいらない。皆、思い思いの仮面をかぶって仲良しクラブを作ればよい。
 そうだとしたら、私も仮面をかぶってみせるのが男に対するサービスかとも思えてくる。仮面は「慣習」や「礼」と言い換えてもよい。とはいえ、いつまでも他人のペースにつかまり、そのためにイランの印象が悪くなれば、それこそイランの方々にとって不本意であろう。
 ──自分の旅をしなければ。
 あらためてそう思い直した私に、男が問う。
「明日、何時?」
「いえ、明日はいいです」
「大丈夫。明日、車ある」
「明日は一人で回ります」
「……? 明日、車、大丈夫。問題ない」
「ぼくは一人で行きます」
「私、お金ある。心配ない」
「一人で行きたいんです」
「どうして? あなた、テヘラン、あまり知らない。私、案内、できる。大丈夫」
「ありがとうございます。でも、いいんです」
「なぜ? わからない」
I want to go alone.
「……」
 肝心の英語が男には通じなかった。私は日本語で同じ言葉を繰り返す。
「一人で回ります」
「あなた、ありがとう、いいです、いいです、言う。なぜ? 私、わからない。私、あなた、案内する。問題ない」
 どのみち、今になって理解されるとは思えない。言葉が通じないのは、かならずしも言語能力のせいばかりではない。
 何度か同じような問答を繰り返したあと、男はようやく思考の風向きが変わってきた。
「もし、あなた、私いらない、言う、明日、私、来ない。あなた、テヘラン、分かる?」
 それに対して、
 ──ああ、あんたなんかいらないね。
 とは、さすがに言えなかった。言葉に飾りがない分、男の直情がそのまま私の心裏に染みた。しかし、だからといって私の意思に変わりはない。自由を得るには、いろいろなものを諦める必要がある。自由になって私自身に帰る旅だから、なおさら切り捨てるものが出てもくる。
 多少言葉を濁しながらも、私は、
「テヘランは分かります。大丈夫」
 と、少し冷たく言いおいた。
 男の顔が少しひきつったようだった。私は気づかないふりをした。
「ありがとう」
 私が最後の礼を言うと、男はそれ以上なにも言わず、静かに背中を向けてホテルを去った。私は後ろ姿を見送ってから部屋に上がった。
 男のアドレスは、旅行当時のメモ帳に綴られたまま、今も暗い箱の隅に眠っている。