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そこは地の果てアルメニア
                   
国際バスの国境越え
〜 イランからアルメニアへ 〜
1998年9月

〈 中 編 〉

4 夜のスフィアン
 夜のバスは単調である。
 車窓に映る景色といえば、黄色いヘッドライトと鮮血のような赤いテールランプが点々と連なるパターンの繰り返しで、たまにくねったり折れ曲がったりの変化は見せるものの、意味もなくだたぼんやり遠望するならともかく、じっと見つめていても時間は遅々として過ぎない。そんなおりに、なんということもなく腕でも組みながら軽く目を閉じてみる。リズミカルなエンジン音と、下半身を細かく揺すってくる振動とが上半身で心地よくミックスされて、知らない間についうとうと。はっと気づいても景色はほとんど変わりもせず、ただ時計の針が大きく回っている。
 その間にも夜は着実に更けてゆき、眠りも次第に深まってくる。
 車が停車した気配にふたたび目を覚ますと、何を売るのか、軒先に白熱球をつるした商店が7、8軒、道路脇に連なってやけに明るい。腕時計を見ると1時を過ぎていた。
 ──この刻限に夜食休憩でもあるまい。
 かといって、たんなるトイレ休憩でもなさそうだ。
 フィリピンのよろず屋「サリサリ・ストア」は、一晩中開いている店もあるというが、イランの片田舎に深夜営業の商店とはどことなく怪しげである。やはり夜行バスを当て込んで開いているのだろう。
 いったい何を売っているのか、ほかの乗客がぞろぞろと降りるのにまぎれて、私たち日本人も降車してみる。店はどれも食料雑貨屋といった感じで、果物を売る所もある。ざっと見たところ、とくべつ珍しい物は置いていないようだ。日本ならおにぎりやサンドイッチを置きたいところだが、バス客を相手にするにしては、腹の足しになりそうなものがない。せいぜい菓子類やパックのジュースなどが雑然と陳列されるばかりで、夜行のバス客がしいて買うほどの物は見あたらない。ほかのバス客はと見ても、そのあたりにいる連中はやはり素見(ひやかし)の口か、とくに買い物をしているふうでもない。私はせっかくなので、200ミリリットル入りのアルミパック・ジュースを予備の飲み物として買っておいた。
 それよりも、
 ──寒い。
 というのが、三人の痛切な思いだった。
 標高千メートルを超える高原のためか、10月初旬ともなると深夜に長袖1枚では足りない。私は防寒具としてウインドブレーカーを羽織っていたが、とても夜の寒さを遮断することはできない。ほかの二人も同じく震えている。ところがうまい具合に、歩道に即席のチャイ屋がある。小さな台に湯沸かし器とプラスチック・コップを置いただけの簡単な店である。自動販売機などなくても、イランでは人がちゃんとチャイを入れてくれる。
 私はつかつかと近寄って、
「チャイ・ロトファン!(チャイ、ください)
 と注文する。店番の男は、はい、ただいま、というふうに、ぺらぺらの薄くて透明なプラスチック・コップに、慣れた手つきで深紅の紅茶を注いだ。白い湯気がふわーっと立ちのぼる。
 金を払うのももどかしく、私は500リヤル札を差し出して、ぺらぺらのコップをそっと持ち上げる。湯気はかなり薄くなったものの、紅茶のそこはかとない香りがほんのりと漂う。私はコップの端に口をつけ、熱いのをずずっと啜った。舌の上で少し冷ましてからごくりと飲み下すと、五臓がじんじんと暖まり背中がぶるっと震えてくる。三人で、路上に深夜の紅茶としゃれ込んだ。
 人心地ついたところで、さきほどからの疑問を、近くの店のオヤジにぶつけてみる。
「すみません、この町の名前は何ですか?」
「ソフィアーン」
「ソフィアーン?」
「ソフィアーン」
「どうもありがとう」
 そのような名前の町は記憶にない。ほかの日本人二人に聞いても同じだった。どうもペルシャ語という感じではない。むしろヨーロッパ的である。古い曰くのありそうな名前だ。いずれにせよ、タブリーズの町はすでに通り過ぎているようだった。帰国後、地図で確かめると、たしかにタブリーズの北、約50キロのあたりにスフィアンという町があった。アゼルバイジャン国境の町ジョルファまで、あと七、八十キロという位置である。
5 北へ、そして東へ
 町を出ると道は大平原に出た。バスはふたたび速度を上げる。月が明るい。
 今、いったいどのあたりを走っているのだろう?
 月の方角からみて、バスは北に疾駆する。まだジョルファを過ぎてはいないようだ。イランの北西部は、北をアゼルバイジャン共和国の飛び地「ナヒチェバン自治共和国」と接する。その上からくさびを打ち込むように、アルメニア共和国が、ナヒチェバンとアゼルバイジャン本国との間に逆三角の形で割り込んでくる。逆三角というよりも、左上にむかって花開いたアサガオの断面を思い浮かべるほうが近いかもしれない。アサガオの左下にはナヒチェバン自治共和国が、右上から右横にかけてはアゼルバイジャン本国が横たわっている。そしてアサガオの花弁の付け根、ロート状に細くしぼられた南端部分に、イラン‐アルメニアの国境がある。このバスは、今まさにその場所をめざして走っている。
 アルメニアは、もともと今よりもずっと大きな領土をもっていた。それが第一次大戦やソビエト連邦の成立などで、かなりの土地を失った。強国にはさまれた小国の悲運。ナヒチェバンやカラバフといった地方は、本来アルメニアの土地であった。それがアゼルバイジャンに割譲させられた。アサガオの花の、のど元の細くやせた部分は、戦争や列強との強引な条約によって削り取られてできたものだ。
 そのためトルコとはもちろん、この両地方を獲得したアゼルバイジャンとも険悪な関係が続いている。
 ついでにいえば、アルメニアの東にある「ナゴルノ・カラバフ」地方は、ソ連崩壊のどさくさにまぎれ、1992年に「ナゴルノ・カラバフ共和国」としてアゼルバイジャンからの独立を宣言した。それに対し、離反された側のアゼルバイジャンは、
 ──ああ、好きにせよ。
 などと傍観はしなかった。
 武力でこれを奪回するべく、独立派軍と戦った。しかし戦況はアゼルバイジャンに味方せず、1994年、ナゴルノ・カラバフ共和国に押し切られる形で停戦に持ち込まれた。その結果、ナゴルノ・カラバフ共和国は事実上独立し、親アルメニアの国としてアサガオの花の根本を東から守ることになる。
 バスは今、ナヒチェバン自治共和国との国境の町ジョルファに向かって北に進んでいる。めざすイラン‐アルメニアの国境は、ジョルファからさらに東に50キロの地点にある。バスはジョルファで東に向きを変え、イランとナヒチェバンの国境を流れるアラス川に沿って、一路アルメニア国境へと東進するはずである。
 月がかなり上ってきた。
 道は、少しずつアップダウンが増えてくる。
 腕時計を見ると午前3時に近かった。窓からひしひしと夜寒が伝わり、上半身が警戒してあまり熟睡できない。目を開けると、窓外には満点の星と、月に照らされた地形の影絵が広がる。車内は車内灯で天井がぼんやり見えるだけで、座席は人の輪郭しか見えない。目を開けても閉じても、モノクロームの世界である。バスはやがて低い山地に入っていく。
 山を越えるといったん平地に出た。午前3時15分。街道脇にちょっとした建物が現れる。荒涼とした無人の風景がずっと続いていたためか、ひさしぶりに人の気配と出会ったようで気持ちがやわらぐ。運転手が手帳を持って建物に向かっていった。どうやらチェックポイントのようである。ジョルファが近いのかもしれない。
 3時半。小さな町に入った。道に中央分離帯がつき、街灯が灯る。たいした建物はないが、このあたりで町といえばジョルファのほかにないだろう。おそらくここがイランの北の果て、ナヒチェバンとの国境ジョルファだろう。ここから先は、アラス川に沿ってアルメニア国境までひたすら東行するばかりである。
 東の空にオリオン座が光っていた。
 その後ときどき川を見かけた……ような気がするが、ジョルファを出てからはさすがに眠りが深くなった。
 ──どのくらい時がたったのか。
 車が停まった気配に、私は目を覚ました。なんの停車かと思いながら、いまだ目は閉じたままである。
 エンジンが停止する。
 車内にいきなり静寂が広がった。目を開けてみる。ほとんどの客は寝ているのか、闇のなかで物音ひとつしない。運転手さえも動く気配がなかった。
 フロントガラスの向こうは視界が大きく開けていた。バスの停まった所は周囲より少し高いのか、前に向かってゆるやかに低くなっているようだ。百メートルほど先には胸丈ほどの柵の門があり、左右から固く閉ざされている。その向こうに、平屋建てかせいぜい2階建ての建物が6、7棟、ばらばらと散らばっている。まだ人の気配はないが、その雰囲気は明らかに国境であった。
 時刻は5時10分前。
 しばらく待っても人の出てくる気配はない。
 どうやら朝まで車内待機のようだ。門が開くのは6時か7時だろう。それまではせいぜい寝ておけという親心か。しかし気持ちが先走って泰然とは眠れない。私は、こまめに目を覚ましながら朝を迎えることになった。
6 出 国
 6時になった。
 東の山の頂きがすでに明るい。ようやく四囲の様子が分かるまでになった。
 東に千メートルほどの山が迫っている。少し離れはするが、西にも千メートル級の山があり、その山並みがそのまま南、すなわちバスの後方へと続いている。つまりここは、三方を高い山に囲まれているのだった。
 要害の地──。国境はすなわち関所。昔、中国の函谷関(かんこくかん)という関は、文字どおり細いU字谷に置かれ、めったなことで破られなかったという。戦国時代、秦から脱出しようとした孟嘗君(もうしょうくん)の一団は、この関を前にして一度は進退きわまったが、早朝にニワトリの鳴き真似をした臣下の機知が的中、役人は規則に従って門を開き、みごと窮地を脱したという故事がある。
 ここは、まさにそのような話を思い出させる場所であった。
 門は7時に開いた。
 バスを柵の外に置いたまま、その先百メートルほどのところにある小学校の体育館のような建物まで、みなぞろぞろと歩く。高い天井の下で、通路の両側に部屋がいくつか並んでいる。廊下の左奧にあるガラスの窓口が、パスポートコントロール(出国審査)になっていた。
 イラン人はめったに列を作らないが、乗客はアルメニア人が多いせいか、とりあえずは列ができていた。ところが役人の作業はおそろしくヒマがかかり、出国のパスポートチェックに一人3分から5分もかかる。
 ──いったい何の作業をしているのか。
 苛立ちまぎれにガラスの向こうをのぞいてみるが、役人の作業はついたての影に隠れて見えない。私たち日本人は列の最後のほうにいたが、それでも最後の人が終わるまでになお15分ほどの時間がかかった。
 しかも、パスポートコントロールの作業はそれで終わりではなかった。
 廊下をはさんだ反対側にまた別の窓口があり、チェックの終わったパスポートはそこに提出させられた。さきほどの役人は制服も地味で、どうやら下っ端らしかったのが、ここの部屋の役人は管理職レベルか、多少は身なりの良さを見せた。どうやらこの管理職レベルが、最終的に出国スタンプを押す権限をもっているようである。
 ──こいつなら作業は早かろう。
 という期待もむなしく、部屋の前を心配そうにうろつくわれわれに、いいから向こうで待っていなさいと、最低の礼貌をみせながらも、内心のうるさい気持ちはおのずと表情に表れる。
 事情に通じた旅行者はさっさと散歩にでも消えたのか、その場にいた人数はせいぜい10人未満、いずれもイランの手続きには不慣れとみえたのが、われわれ日本人とともに、いまひとつ安心しきれないといった面もちでその場を離れる。
 それでもパスポートはむげに置き去りがたく、またかくべつの行き場もなく、建物の一角でベンチに座って待つ人が数人。私の隣には黒いスカーフをかぶった女性が座る。スカーフの端からつややかな黒髪がわずかにのぞいている。三十代後半か。宝塚のスター役者のように目鼻立ちが大作りで、それが顔全体にバランス良く収まって、おそらく美麗な服を着て頬紅でもつければモデルにでもなれそうなイタリア的美人である。イランでは化粧はまだ米国の堕落文化だという空気が残っているため、その女性も素顔だったが、それでもバスに乗り込んだときから、
 ──きれいな人だ。
 と目を引かれた。旦那さんがいかにもイラン人の容貌をしており、またこの奥さんもイランのパスポートを持ってはいたというものの、はたして生粋のイラン人なのか、それともアルメニア系イラン人なのか、私にはいずれとも判別がつきかねた。
 いずれにせよ、イランの人であることにはちがいがない。私はペルシャ語で、
「エングレーシー・バラーディード?(英語は話せますか)
 と、きっかけを作ってみる。思えば、イランに来てイランの女性に話しかけるのはこれが初めてである。イランで男が妻か親族以外の女性と話をすると、それだけで刑事事件になりうると聞いた。厳密にはここはまだイランだが、そこまで厳格になることもなかろう。
 奥さんの答えは、意外にも、
「ソーソー(まあまあ)
 であった。
 私の耳には、少なからず自信がありますよ、と聞こえた。英語に限らず、その道の深奥さを知る人は答えが謙虚になる。役所などは別にして、英語ができますかと聞かれて「はい」と大見得を切る人間は、えてして簡単な会話すら怪しかったりする。「まあまあ」という返答の向こうに、この宝塚系ペルシャ女性のもつ恵まれた生い立ちが想像された。
 彼女たち夫婦は、これからアルメニアに住む親戚を訪ねるのだと語った。詳しくは聞きそびれたが、やはりアルメニア系なのかもしれない。
 いったんトイレに立って戻ってくると、検官がパスポートを返却しているところだった。日本人二人が、それぞれ赤と青のパスポートを受け取っている。私も自分の青いパスポートを返してもらう。長い出国審査であった。
 さて、次は税関である。
 全員いったんバスに戻り、各自の荷物をもってくる。検官は脳天気な日本人旅行者を先に済ませてしまえとばかり、私たち日本人三人を呼び、荷物検査を行った。
 税関といっても、緑色や赤色のランプがあるわけではない。
 廊下の隅に、ちょっとした台があるばかりである。その上に荷物を載せ、バックパックの口を開いて半分ほどをごそごそと取り出す。所詮は国を出ていく人間で、しかも外国人である。持ち出されて困るものといえば、古美術品の類だろうか。しかしわれわれ三人は、どう転んだところでせいぜい千円ほどのじゅうたんを、おだてて買わされるのが関の山、とても古美術などというガラではない。検官もそのあたりは心得ているのか、厳しく詮議する素振りはなく、半分空になったバックパックを底のほうまでかき回してはみたものの、視線はあくまで柔和で事務的、余計な物が飛び出るのをむしろ心配するかのように、不審物がないと判断するなり、OKとの仕草で次の人の検査に取りかかった。
 しかし簡単な検査とはいえ、
 ──出国時にここまでするのか。
 と、驚きを禁じえなかった。
 一つの荷物に5分ほどもかけている。われわれ旅行者はまだバックパック一つですむが、他の乗客は、大きな革のスーツケースにミカン箱くらいのダンボール数個を持つ者も珍しくない。なかには米を持って帰る男もいる。
 時刻は9時半になっていた。ここの門が開いてから2時間半。われわれ三人の手続きは終わったものの、この分ではいったいいつになったら乗客全員の手続きが終わるのか、まったく予想がつかないと思いながら、われわれ旅行者三人組は、イミグレーションの建物を抜けて、アルメニアとの国境をなすアラス川の鉄橋に向かった。