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2012
——  宝山寺点描  ——
〈前〉
 朝晩が寒いくらいの梅雨が明け、一足飛びで猛暑が訪れたので、ふらっと気軽に行ける避暑地がないものかと、探して見つけたのが生駒山。近鉄生駒駅からケーブルで登った先に宝山寺(寳山寺)という修験道系の寺があるらしい。
 さして涼しそうには思えなかったものの、避暑よりむしろ寺そのものに興味を引かれ、7月のとある土曜日に宝山寺を訪れてみた。
マーク 近鉄生駒駅で電車を降りる。
 高架の改札口の周りは意外と店が多く、開けている。改札前の略図でおそよの見当を付けてからケーブル駅に向かう。
 駅前の商店街がいかにも昭和的だったので少し迷い込んでみる。しかし、朝9時半すぎの空気はすでに熱気と湿気を帯びて地表付近に淀んでいる。下界の商店街をぶらつくために生駒に来たわけではないことを思い出し、商店街を出る。
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壁に張られた商店街のマップ
マーク 駅前の大通りに戻るとケーブルカーの駅が見えた。
 雲がいくらか出ているおかげで肌が強く焼かれることはないが、それでも屋外は十分に暑い。今から汗まみれになっては元も子もないと、はやる気持ちを抑えながらケーブル駅を目指す。
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ケーブルカーの始発駅
マーク ケーブルカーの駅に着くと、ちょうど車両が到着したばかりのようで、何組かの子連れグループが改札口からわらわらとこぼれ出てきた。上界の住人だろうか。
 次の発車は10時ちょうどだ。あと15分ほどあるので乗って待つことにする。
 にしても、イヌを模した外観は、おそらく20年前の子どもには人気を博したのかもしれないが、昨今の生意気なガキに対して果たしてどこまで通じるか。昔の姿をまとい続ける車両に一片の哀切を感じた。
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宝山寺駅から下界方向を振り返る
マーク 宝山寺駅から1分ほどで参道に出る。
 「聖天通り 観光生駒」と書かれた、何の工夫もないあざとい門が、あらゆる御利益を吸い取るかのように俗なオーラを放っていた。
 後で知ったのだが、何と、行者の役小角(えんのおづぬ)が修行したと伝えられるこの土地に、かつて遊郭が存在したという。いや、なにやら今でもその歴史が続いているとかいないとか。美しく整備された石段に不似合いな無粋な門も、そうした背景を知ると妙に納得する。
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きれいに整備された石段の参道
マーク 参道沿いには新旧さまざまな旅館が建っている。
 いまどき生駒に泊まる客などいるのか不思議だが、常連の宴会などで成り立っているのだろうか。
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ペンキのはげ具合が渋い、老舗っぽい旅館
マーク 石段を数分登ると最後の階段部分に至る。
 両脇にずらりと並ぶ灯籠と大木が、高壁の通路をつくりながら奥の大鳥居に収束する。ここは寺なのに巨大な鳥居がある。
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参道の最後の階段
マーク 大鳥居に到着。
 あちこち写真を撮りながら登っていると、中高年のグループに追い越される。行儀のいいグループだったし、彼らにも参拝を楽しむ権利はあるけど、それでも静かな水面を荒立てる程度の勢いはあった。
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大鳥居
マーク 駐車場を越えるといよいよ境内の中心である。外側に惣門があり、その内側に中門がある。俗界を厳重に遮断する二重サッシ構造である。
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惣 門
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中 門
マーク 宝山寺はいわば生駒の総合宗教園だ。
 ご本尊の不動明王を祀った本堂の横に、さらに拝殿と呼ばれる建物がある。不動明王は密教の代表的な尊格のひとつなので、本堂に不動明王が祀られているのは道理である。尊格とは仏様の種類というような意味だ。
 一方、隣の拝殿に祀られている尊格は、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん。通称:聖天さま)だという。初めて聞く名前である。いかなる仏かと調べると、象の頭をもつ交合仏で、秘仏であるらしい。
 交合仏は歓喜(かんぎ)仏や和合仏などいろいろな呼び方があるが、要するに男女の尊格が交合している図像である。仏教真理を垣間見るどころか、われわれ俗人には単なる性描写にしか見えないので、通常は修行を積んだ僧侶しか目にすることがない。おのずと秘仏になる。
 聖天さまは象頭であり、ヒンズー教のガネーシャに由来するようだ。
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本 堂
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本堂、正面からの写真
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「歓喜天」の額が掛かった鳥居と拝殿
マーク 本堂に軽くお詣りをしたあと、奥の院に向かう。

※ここでページを改めることにします。続けて後編もどうぞ。