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青奇家
旅エッセイ 星洲炒米 (香港銅鑼湾)
 2カ月前に開業したハイサン・プレイスで、思わず本屋に長居した。
 デザインの本や写真集、それに雑貨や食器のコーナーなどをゆっくり見ていたら、知らない間に時間が経っていた。すっかり昼メシが遅くなったと空腹をかかえ、そごうの裏手で手頃なメシ屋を探す。
 ある店先に料理のパネルが出ていた。立ち止まって見ていると、店員の男が現れてパネルを交換する。午後2時を回ったので、ランチメニューがふつうのメニューに戻るのだろうか。店の雰囲気は明るくてよさそうだが、古いパネルには心を引かれず、入るのをためらっていただけに、いいタイミングだった。
 星洲炒米という料理が目を引いた「星洲」はシンガポールで「炒米」は焼きビーフンである。すなわち、シンガポール風の焼きビーフンだ。こういうときのシンガポール風はカレー風味の意味である。おそらくマレー系かインド系の味付けから来ているのだろうが、詳しいことは調べたことがないのでわからない。

 星洲炒米に決めて店に入る。
 内装はシンプルだがこぎれいで、昭和のカフェレストランといった趣だ。私は奥のテーブルに座る。ウェイトレスがすかさず注文を取りに来る。ところが、テーブルのガラス板の下に示されたメニューに星洲炒米の文字がなかった。国語(北京語)なら発音できるが、広東語圏の香港で大陸の国語が広まる状況をあまり快く思えないでいる私は、香港人に国語を使うことに抵抗を覚える。おのずから「シンガポール・フライド・ライスヌードル」と、英語で伝えることになる。
 珍しい料理ではないのでオーダーはすんなり通ると思いきや、若いウェイトレスは軽く動揺して先輩格のウェイトレスを呼ぶ。やってきた先輩格のウェイトレスも、私がシンガポール・フライド・ライスヌードルと告げるとなぜか困惑した表情になり、他の店員を呼ぶ。
 まるでコントのようなわざとらしい展開に、むしろこちらが当惑していたが、やってきたリーダー格のウェイターに再度シンガポール・フライド・ライスヌードルと伝えると、そんな料理は出していないと英語で言う。ウェイターは机の端に立ててあるプラスチックボードのメニューを取り、そこに写っている一品を指して、こういう料理ならありますと言う。
 ——あ、あった。
 ウェイターが指した料理ではない。左上に星洲炒米の文字と料理の写真が載っていたのだった。テーブルのメニュー以外にメニューカードがあるとは気づかなかった。ウェイターが私の注文をどう聞き違えたのかは不明だが、もはやそんなことはどうでもよく、結果的に星洲炒米を無事に注文することができた。

 ほどなくして頼んだ料理がやってくる。最初に注文を取りに来た若いウェイトレスが皿を無造作にテーブルに置いたため、かつんという硬く乾いた音が響く。あまり気持ちのいい音ではない。しかし、運ばれてきた星洲炒米は焼きビーフンの旨みがカレースパイスによってぐっと引き締められ、中華とインドの食文明が見事に融和していた。適当な品で妥協せず、この料理を頼んだのはまったく正解だった。
 とはいえ、このまま「おいしゅうございました」と帰るだけでは能がない。星洲炒米の読み方を覚えておけば、いつか役に立つ機会があるかもしれない。料理を運んできた若いウェイトレスが近くに来たタイミングで呼び止め、星洲炒米の写真を指さして広東語で何と言うのか聞いた。
 いきなり広東語で聞いたせいか、あるいは不自然な言い方だったのか、怪訝(けげん)な表情になったのでもう一度聞くと、「セン1 チョウ1 チャウ2 マイ5」という答えが返ってきた。仮名の後ろの数字は声調番号である。
 読み方を確認できたところで食事に戻る。ランチのピークを過ぎた時間帯とはいえ、三人を煩わせた後味の悪さを星洲炒米のうまさで意識から追い出し、食後は旅のメモを書きながら残ったアイスコーヒーで一服する。店内が再び混み始めるなか、近くのテーブルにいた女の先客がレジに立ち、軽い居づらさを私に残していく。気のせいだと思いながらも、私もしばらくしてから伝票を持って立ち上がる。先輩格のウェイトレスがちょうどレジに入るところだった。先ほどは彼女もぼくの注文を理解せず、主任格のウェイターを呼んだのだった。面倒な客と思われただろうが、もう来ることはないだろうし、支払いさえ終わればすべてが清算される。
 レジで伝票を差し出した。
 すると、先輩格のウェイトレスはいきなり、
 「セン1 チョウ1 チャウ2 マイ5
と、星洲炒米の言葉をゆっくりと念を押すように発音してほほえむ。
 不意を突かれ、私はただ笑顔を作って支払いを済ませるしかできない。先ほどの発音のやりとりを見られていたのだろうか?
 どうやら距離を置かれているのではなかったようだ。代金を払って出て行けばすべて消去される一見(いちげん)の客に、まるで「山」「川」の符合のような言葉を投げてよこす。
 店を出たあとも、その言葉の余韻が私の感情をふんわりと包んで温かだった。

(2012.10.25 記)

 
hysan
商業施設ハイサン・プレイスの入口