もはや過去の遺物だと思っていたそのリコンファームという儀式がウラジオストク航空では必要なのだった。で、その72時間前がはたしていつなのかと、到着したホテルの部屋で数えてみると、それは明日の午後二時であった。
——ひゃん!
私は軽く驚いた。
要するに明日の午前中をめどにウラジオストク航空に連絡し、「かくかくしかじかの便にしかと乗りますのでヨロ」と言わねばならない。もう少しくだいていえば「I want to reconfirm my reservation」という決まり文句を唱えるのである。もちろんオフィスに出向いても構わないが、明日はあいにく日曜日であり、休業の可能性が大であった。
現地のホテルに到着するまでリコンファームの心配をしなかったのは、私に腹案があったからに他ならない。短い旅行のときに一度やったことがあるのだが、到着したその足で空港内のカウンターに寄ってリコンファームを済ませてしまうのである。空港を出るときにはすでにリコンファームが済んでいるので、72時間前のタイムリミットを気にすることなく旅行に専念できるのだ。
今回もその手を使う算段であった。
ところが、ひとつ大きな誤算があった。ここの空港はパリやローマやウィーンや香港やバンコクのように外国人がなだれを打って押し寄せてくる大人気の空港ではなかった。国内線はそれなりに飛んでいるようだが、こと国際線に限っていえば、一日一便あるかないかのローカル空港である。しかも客の多くはロシア人で、個人旅行の外国人などおそらく数えるほどに違いなかった。現に今乗ってきた便にしても、社用で来ているとおぼしき日本人は数人見かけたが、十月におっとりやって来るような季節外れの日本人旅行者はどうやら私一人であった。
ウラジオストク航空の窓口はすぐに見つかった。Eチケットの控えを出して帰路便を指さし、「I want to reconfirm my reservation」という決まり文句を唱えた。すると、あに図らんや、まるでキヨスクの店番を掛け持ちでもしているかのような庶民女がいきなり反論してきた。
何を言っているのかさっぱりわからないので、それが〈反論〉かどうかは定かでないが、少なくともリコンファームを処理できないのなら、それは反論であり反乱である。国際線ターミナルでEチケットの控えを見せてこの有様なのだから、もはやお手上げである。私は黙って窓口を離れた。
かくして翌日はリコンファームという楽しい課題を背負いながら、ウラジオストクの町を観光することになった。
翌朝、八時を回ったところでウラジオストク航空の代表番号に電話を掛けてみる。掛け方はもう間違わない(第1話参照)。「8」をダイヤルしてから市外局番を続ける。受話口の奥ではアメリカ風の長い呼び出し音が断続的に鳴り続ける。さすがにまだ時間が早いのか、応答がない。ひとまず散策を兼ねて市の中心部を歩いてみることにする。
ホテルから数分歩くと鉄道駅に出る。駅の向こうは金角湾である。正面から駅舎に入った先は二階になっていて、切符売り場と軽食屋と大きな待合室があった。ホームには大通りから直接降りられるので改札口はない。駅舎を出て線路沿いに五分か十分ほど歩くと中央広場に出る。広場の奥にはとんでもなくデカい立像があり、それよりも小さいがなおバカデカい像が両脇を固めている。虚を突くこの巨大さはロシアお得意の都市構想である。手近な情報によると像は革命戦士らしいので、さしずめ戦士三尊像である。
中央広場でゆっくり写真を撮っていたら九時を過ぎたので、もう一度電話を掛けてみる。今度はすぐに応答があった。
——よっしゃ。
と喜んだのも束の間、受話口の向こうはロシア語だった。
「英語を話しますか」の問いには、「いいえ(ニェット)」とつれない。「誰か英語を話す人がいますか」と聞いても、意味不明の答えしか返ってこない。「I want to reconfirm my reservation」という決まり文句に対しては、まさに馬の耳に念仏。
しかし、相手の声に冷たい響きはない。私の言ってる用件がわからないだけのようだ。男は何とか対応しようと、英語で03000だか、やけにゼロの多い番号を教えてくれるが、それがいったい何の番号なのかがわからない。不毛なやりとりが次第に耐え難くなり、私は「Thank you」と言って電話を切った。
日曜日は店舗が閉まっている可能性が高いので、なるべく、できうるかぎり、極力、願わくば、電話で済ませておきたかった。他支店の電話番号もあるにはあるが、代表番号でこの状態なら後は推して知るべしである。地図で見ると本店とおぼしきオケアンスキー大通りの営業所がすぐ近くにあったので、散策がてら行ってみることにする。ただ、その営業所は市庁舎の中にあるようなので、中に入れる可能性は限りなくゼロに近いと思われた。
オケアンスキー大通りは、ウラジオストクの中心部をほぼ南北に縦貫する目抜き通りである。賑わっているのがせいぜい海側二百メートルくらいの範囲だということが、この町の規模を如実に示している。よく言えば落ち着きのある町である。
市庁舎のドアは当然ながら閉まっていた。しつこくドアを揺さぶるといかにも怪しいので、中央のドアを二、三回、引くにとどめた。一通りの義務をこなしたわずかな満足感と大きな徒労感を背負って引き返す。私なりのトライはひとまずこれにて終了である。
ホテルを午前中にチェックアウトする必要があったので、いったんホテルに戻ることにする。フロントの人たちは感じがよかったのでちょっと相談してみよう。それでだめなら日本語ガイド氏である。選択肢はまだまだ残っている。
ホテルに着いたところで、真っ先にフロントに行く。
リコンファームは希望があればホテルや日本語ガイドが有料で請け負うという旨のことが、たしか旅行会社からもらった説明書類には書かれていた。しかし、海外初心者ならともかく、過去に何度もリコンファームを経験している者にとって、リコンファームごときを他人に、しかも金銭を支払って頼むという選択肢は端(はな)から頭になかった。
フロントの人は英語を話すので、「リコンファームはロシア語で何て言うんですか?」と、英語で聞いたのだった。言い方だけを教えてもらい、あとは何とか自力でトライするつもりだった。すると、フロントの女性はロシア語を教えてくれるかわりに、
「リコンファームしたいんですか?」
と、逆に質問してきた。「はい」と答えると、何とその女性が電話してくれることになった。電話番号を書いた紙を見せると手元の紙に番号を写し、電話を掛ける。
「こちらはホテル・プリモーリエですが……」
私がEチケットの控えをカウンターに置いて帰国便を指さすと、私の名前、帰国日、発着地を順番に告げる。電話の向こうで職員がキーボードをたたいて画面を確認しているらしき時間が流れたあと、再び何やら言葉を交わして電話は切られた。
「No problem.」
昨晩空港に到着してから午前十時すぎまでかかっても成果が皆無だったリコンファームの作業が、ほんの一、二分の会話で、しかも自分はただカウンターの前に突っ立っているだけで、見事にクリアされた。
——ひゃっはあ!
私は憑きものが取れたようなすがすがしい気持ちで「Appreciate !」と礼を言った。とくに料金は必要ないようだった。ロシア人にすれば朝飯前のことかもしれず、仕事柄よくあることなのかもしれないが、私にはシルクハットから鳩が飛び出したくらいの鮮やかなマジックにも等しかった。
私は足取りも軽やかに部屋に戻り、チェックアウトに向けて荷物の整理を開始した。
※ 注:帰国後、ウラジオストク航空のホームページを見ていると、リコンファーム用のコールセンターの番号が書かれてあった。上で男が伝えようとしたのは、どうやらその番号のようだ。旅行会社からもらったリコンファームの資料にはそのような番号は載っていない。ちゃんと正しい情報を教えてくれ……。