遙かにバルカン
ウィーン〜イスタンブールの旅日記
〈復刻版〉
20数年前の学生一人旅
平和なボスニア
198某年 312日( 6日め
夜行列車の車中。もうすぐサラエボに到着です。
 車掌さんは外見に似合わず親切な人で手帳にメモした日本人2人の住所をオレに見せて、ここへ行ったことがあると言う。さらに仮眠用のベッドに座らせてくれて、ミルクを一杯ごちそうしてくれた。[*1]
 サラエボには40分くらい遅れて着いた。
*1:たしか、早めにデッキに出て降りる準備をしていたら車掌さんに声を掛けられ、角にあった車掌室に入れてもらったのだと思う。
サラエボ
サラエボ:当時は、旧ユーゴスラビア連邦の主要都市のひとつ。現在はボスニア・ヘルツェゴビナ(以下「ボスニア」)の首都。

ウィーン → サラエボ移動図(Googleマップを加工)
ウィキペディア
 駅で荷物を預け、トイレを済ませて i観光案内所。外はあいにくの雨。うっとおしくて町に出る気にならない。
 今、駅のサテンでコーヒー(Din 150
 Duran2デュランデュランのA View to A KillYouTubeが流れていて、ちょっと一息。

 さて、今日もこの町に泊まる予定はないので、23時の夜行に乗ろう。しかし、窓口のおっさんはロシア語を使えとぬかす。
 おっとBGMはNo More Lonely Nightのロング・バージョン。列車で車掌にもらったミルクと今のコーヒーで、胃の中はカフェ・コン・レッチェだ。

 雨がやまないと外を歩く気にならん。
 駅舎の感じとしてはかなりヨーロッパ的。さすがはオリンピック[*2]のあった町だ。いちおう英仏独の訳が書かれている。しかし、人は自分の言葉くらいしか喋らない。
*2, オリンピック:1984年の冬季五輪。
 ユーゴの旅行に少し疲れてきた。ユーゴは早めに抜けたいと思うようになった。とにかく移動に時間が掛かるので、ひっきょう夜行となる。すると、夕方から夜中までの時間の使い方がわからんのだ。まあ、あさってのブカレストルーマニアの首都の宿を期待しよう(しかし、学生旅行で宿の期待などするのは間違っている。期待しないでいると、案外いいと思ったりするのだ[*3]
*3, ブカレスト:その後、ルーマニアは宿が高いし街はつまらないと旅行者から聞き、ルーマニア行きは取りやめた。
 やったー! 晴れてきた。グラーツの朝以来の太陽。
 1番のトラムに乗って町に繰り出す。初めて切符の入札をする。しかし、多数の人は何もしない。[*4]
*4:トラム(路面電車)には改札がないので、車内の機械に切符をかませて無効化する。入札しない人は、おそらく定期券のようなものをもっていると思われる。
 川のほとりで降りて、来たのと同じ方向へ歩いて行く。途中で路地に入り、町並みをひやかす。ふとイスラムのモスクに出くわし、入ってみる。
 床一面にペルシャじゅうたんが敷き詰められている丸屋根と、そそり立つ尖塔。実は歩いているとこういったモスクは意外に多い。旧市街はトルコの町なのだろうか。ちょっとしたアラビアン・ナイトの世界である。
 実際、川が大きく左折する対岸に開かれていた市(いち)は、まぎれもなくトルコ人[*5]のバザールだ。スカーフに頭を包んだ老婆が糸の束を売っている。
*5:実際にトルコ系民族かどうかはわからないけど、オスマン帝国の雰囲気を受け継いだムスリムっぽい人たち、の意味。
 丘に続くやや急な坂を登ると墓地があった。オベリスク先端が尖った細長い石柱/ウィキペディアの小型のものが無数に立っている。
 下にもどって中心部へ。土産物屋をのぞいていると、30歳くらいのおばさんが声を掛けてきた。
「パ・ルースキ?[*6]」と聞くので「ニエット」と答えながらも、何とか雰囲気で話をした。——ぼくは日本人で大阪から来ました。きれいな塔がいっぱいあるので写真も撮りました。
 おばさんの質問に答えた内容をつなぐと、上のようになるなったはず
*6, パ・ルースキ?/ По русски?:「ロシア語で(話せますか?)」の意味。「ニエット/ Нет」はNo。ぼくはロシア語はわからないけど、英語に似た単語がけっこうあるので、雰囲気で大意が取れることもある。
 次に現れたのはカトリック教会。中に入ったが誰もいない。暗いし、気味が悪くなってすぐに出てきた。そこからすぐの所に今度は正教東方正教会の建物。十字架の像こそはなかったが[*7]、壁にはキリストのはりつけの絵が掛かっていた。ステンドグラスは聖者の姿。
 そろそろ11時すぎ。疲れてきたのでレストランに入る。まあ、ふつうのおっさんが入っていくので、高い処ではないはず。入ってみるとセルフだったので大いに喜んだ。
*7:東方正教会ではもともと偶像崇拝を禁止したため、カトリック教会にあるようなイエス様の立体像は原則的に見られない。代わりに絵(イコン)が飾られることが多い。
出費
・トラム Din 120/絵はがき Din 60
・昼メシ Din 532
 (1ディナール=約0.6円)
 ボスニアは民族・宗教事情がややこしいので、ぼくが知ってる範囲で簡単に書いておきます。

 当時のユーゴスラビア連邦では、連邦内のセルビア共和国とクロアチア共和国がそれぞれセルビア人やクロアチア人を中心に構成されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナには3民族が混在・共存していました。クロアチア人、セルビア人、ムスリム人です。「ムスリム」はご存じのようにイスラム教徒という宗教的な呼び方ですが、ボスニアでは民族が入り交じっていたため、「ムスリム人」という〈民族名〉が考案されました。ぼくが上で「トルコ人」と書いた人々は、公式にはおそらくこのムスリム人なのでしょう。なお、ムスリム人は現在では「ボシュニャク人」と呼ばれるようです。
 3民族を整理すると、ざっと次のような感じです。ただし、3民族を分けることがどれだけ意味をもつのかはわかりません。

〔ボスニアの3民族の特徴〕
民族クロアチア人ボスニア人
(ボシュニャク人)
セルビア人
宗教カトリックイスラム教セルビア正教
言語セルボ・クロアチア語
(現在は「ボスニア語」)
文字ラテン文字主にラテン文字キリル文字

 ボスニア紛争後の1995年、デイトン合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナの中に、クロアチア人とボシュニャク人を中心とする〈ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦〉と、セルビア人を中心とする〈スルプスカ(セルビア人)共和国〉という国家内国家が成立しました。

参考文献:
外務省:ボスニア・ヘルツェゴビナ
『図説 バルカンの歴史』柴 宜弘、河出書房新社(2001年), p.156
『ユーゴスラヴィア現代史』柴 宜弘、岩波書店(1996年), p.199
ウィキペディア:ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

 
 この旅行当時は、少なくとも外見上は平和で、何年後かに民族感情があおられて、内戦状態になるとはまったく予想できませんでした。
 ——それでは旅日記にもどりましょう。

 「テクニ何たらšcolaという停留所からトラムに乗る。が、駅は5分とかからないところにあった。歩きっぱなしでだんだん疲れてきた。
 夜行で移動しようかと思ったがやはり夜中の11時なんて待っていられない。少し高くなるが、特急でベオグラードに行くことにする。そのあとのことは知んない。
 切符を買って3000ディナールしか残らなかったので両替する。移動つづきでさすがにダレてきた。ベオグラードで宿が取れなかったらどうしようか。まあ何とでもなるし、何とかする。
 土産物屋で爪切りを買い、爪を切った。かなりさっぱりした。
出費
・サラエボ→ベオグラードのチケット Din 2280
・爪切り Din 30
アイコン 両替 $20 → Din 6271
 コンパートメントは家族連れ3人と、いかめしい顔のおっさん。昨日はクシェット簡易寝台でいまいち眠りが浅かったので、まず寝る。
 2時間半くらいしたところで、車内で配られたパンを食べる。
 やがて、お父ちゃんがオレにウエハースを勧めてくれる。ガキに頼まれたのだという。オレはかわりにイチジクジャムのクッキー車内用に買ってあったをあげる。
 それからガキと親しくなって、彼はトムとジェリーの小冊子を出してきて、いろいろ訳(わけ)のわからん言葉で説明してくれる。オレは「へえー」とか「そうそう」とか、適当にあいづちを打つ。
 そのうちガキが何か尋ねてきた。オレが困って横のお母さんに“Do you speak English?”と尋ねても、やはりダメ。Deutsch? 首を振る。やはりダメか、と思っていると、向こうからFrançais?と聞いてきた。へえ、こんな所にもフランス語のできる人がいるのかフランス語はいちおう第二外国語なので助かりだ。
 彼らはサラエボでスキーをした帰りだった。
 オレがガキに5円玉をやると、とても気に入ったようだったその後、ガキはカエルのおもちゃで遊び始める。
 8時半ごろからまた眠くなって寝る。
 ベオグラードには夜の9時35分着。ガキにオレの住所を教える。ガキは電話番号を教えてくれた。
 
ベオグラード
ベオグラード:当時の旧ユーゴスラビア連邦の首都であると同時に、その構成国であるセルビア社会主義共和国の首都。現在はセルビア共和国の首都。
ウィキペディア
 さて、問題はここからであった。i観光案内所でStudent Hotelの場所を聞くと、トラムNo.9と言うので、その通りに行き、途中、何人かに聞きながら、やっとたどり着くと、そこは宿泊施設ではなく単なる学生寮だった。
 しかし、そこの人たちは鬼のように親切で、わざわざベッドを空けて寝させてくれた。大したものはもっていなかったので、絵はがきを3枚あげる。
 部屋のお兄さんは医者の卵。22歳。英独仏は通じず、ロシア語ができるだけこちらも疲れていたしほとんど会話にはならなかった。
 彼はセイコーの時計を持っていた。
会計〉さぼり
2版/2010.5.23
注3の追加/2015.8.08
地図の追加/2015.8.09